太宰府

      水城 ・太宰府          

博多区を南下すると大野城市域となります。「大野城」の名称は、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗を喫した日本が、大宰府防衛のために、天智4年(665)に大野山(今の四王寺山)に築いたわが国最古の朝鮮式山城「大野城」(おおののき)に由来しているそうです。市の人口はおよそ9万人、博多と太宰府の間にある要所です。

 

博多駅の北に流れる御笠川を渡り、そこからただひたすら南下するが、あまり面白い道とは云えない。大野城市との境界のあたり、東雲町交差点の手前を右に入ると日吉神社があります。。
春町3の交差点を左に入って行くと地縁神社があります。
その地縁神社の近くに御笠の杜があります。神功皇后が、荷持田(のとりだ)に住む羽白熊鷲を従わせようとして、香椎の宮から松峡宮(まつのおのみや)へ向う途中、突然つむじ風が起こり皇后のかぶられていた笠が吹き飛ばされて、この森の木にひっかかったため、御笠の森というようになったとのことです。今ではこの辺りは開発が進んでおり、新しい道路が出来ていてとてもそのようなイメージと繋がりません。

 

大野城市と太宰府市の境界は少し判りにくいが、九州道路の辺りから太宰府市域に入ります。太宰府市は1300年前に九州全体を治める「大宰府」(おおみこともちのつかさ)という大きな役所が置かれ、約500年の長い間、その役割を果たしていました。今もその歴史をしのばせる大宰府跡、水城跡、観世音寺、太宰府天満宮など市内に数多くの史跡や名所が存在し、人口はおおよそ6万6千人。

 

太宰府市に入ります『日本書紀』巻第二十七天智天皇条に「筑紫に、大堤を築き水を貯へ、名けて水城と曰ふ」 と記された大堤「水城(みずき)」跡があります。

水城跡はその名の通り、664年に大宰府防衛のために築造された土塁で,博多側<北側>に堀が造られ水が貯えられていたことが判っています。土塁には2ヶ所に門が作られ、奈良時代には官道が通り、西門は鴻臚館(こうろかん)に通じ、東門は博多に通じていたと推定されています。
 

今は門もなく国道がとおて居ますが、博多側からの入り口にこのような大きな水城大堤之碑が立っています。
少し太宰府側に入りますと、史跡水城の標識とともに東門の礎石があります。この画像は礎石の部分だけ拡大して表示しております。
水城跡を過ぎますとすぐ左に衣掛天神があります。この石鳥居には文化9年と彫られています。
衣掛天神からさらに進みま112号線を斜めに渡ることになります。その辺りは旧小字鍛冶久と標識には書かれています。
さらに道を進みますと道の右側に歌枕として知られ、伝説の「苅萱道心と石童丸」ゆかりの地としても有名な刈萱の関跡があります。
刈萱の関を過ぎますと今度は左に関屋地蔵堂があります。ここは旧小字関屋という場所です。
そこから少し先、今度は道の右側に3本の道標があります。
そこから再び112号線に交わる手前に太宰府天満宮の一の鳥居が立っています。
そこからすぐに太宰府政庁の前に出ます。そこには史跡太宰府阯都府楼之址の2本の石碑がたっています。
そこを入ると南門址です。南門は政庁の南に開かれた正門で、両側に東西に延びる築地塀が取り付き政庁全体を囲んでいたそうです。また要人や外国の使節を応接するにふさわしい威容を誇っていたとのことです。
(財)古都大宰府保存協会と九州国立博物館設置促進財団の大宰府政庁南門跡の説明板によりますと南門を復元するとこのような門だったようです。
また説明板では近年の大宰府政庁跡はこのようであると航空写真で説明されています。
大宰府政庁址は広く、いまも礎石が残っていますが、中にはレプリカも含まれているようです。この画像の辺りは後殿跡です。
政庁跡には立派な都督府古跡の石碑などが立っています。
このあと引き続き太宰府周辺の見所を少しご紹介したいと思います。